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土を食み、たゆたう者 * 6/19

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 外から見える私たちは、窓枠で切り取られてふたりきり、小さな水槽に入れられた魚のように見えるだろうか。区切られた世界にふたりだけで、誰も私たちを指差さず、私たちの存在を知りもしない、そんな世界。
 溶けないこのアイスと同じように、一途な私の想いは、溶けてもコーヒーにはきちんと混ざらないのと同じに、どこにも行けず、何にもなれず、私の胸の中でただふくらみ続けている。

43ntw2 | 2016/06/19



 「マスター。これ、美味しいんですかね。」

 私がつまんでいるのは魚の餌だ。

 「ん? ああ、お腹すいたの? 食べてみてもいいよ。お勧めはしないけど。お砂糖とミルクはお使いですか。」

 マスターはゴブレットを磨きながら、真顔でそんなことを言う。

 「いえ、いいですよ。だってこれ土とか砂みたいじゃないですか。」

 「ブラックがお好みでしたか。」

 「そうじゃなくて。いつもぱくぱく美味しそうに食べてるよなあって思って。」

 「あまり量をやらないでくれよ。食べすぎたり溶け残ったり、ろくなことないから。」

 マスターの手がゴブレットからタンブラーに移ったのをきっかけに、私は餌を注意深く量って水槽に落としていく。

 「その水槽はそいつらの街であり寝室であり、風呂であり食堂でありトイレでもあるからね。」

 「後半の話は、お客様がいらっしゃったら止めてくださいね。」

 そんな風にデリカシーがないから離婚になっちゃうんですよ、という軽口はまだ叩けない。

 しばらく前に、何だか最近元気がないなと思ったことはあったが、マスターはどうやらその頃に離婚していたらしい。私が先週、テーブル席を片付けていた時、カウンターの中の手が止まる気配を背中で感じた。

 話題を出した常連のお客様は私がそのことをとっくに知っていると思っていらしたのだろうか、それとも知らないと見て、あえて軽い触媒の役を買って出たのか。私は普段、この店では聴覚を半分閉じて、お客様の会話を全部は聞かないようにしている。でもあの時は私の手も止まりかけた。

 マスターはそれに気付いただろうか。動揺の理由まで気付いただろうか。本当の理由は私も自分ではわかっていないのかもしれない。

 「コーヒーも、よく考えると泥水みたいなものですね。」

 磨かれたタンブラーを見て私は言う。さっきお帰りのお二人、コーヒーフロートの方のお客様にお出ししたグラスだ。

 「失礼だな。」

 マスターが笑う。

 「水清ければ魚棲まずって言うだろう。この店だって結構淀んでるし、そういうのも必要なんだよ。」

 私たちは父娘と見るには顔立ちが全く似ておらず、夫婦にしては歳が違いすぎ、多少の冗談を言い合えるようになってきてはいるものの、いつ誰がどこからどう見てもやっぱりただの店主と店員で、さっきのお二人が窓枠に収まる姿はその後ろに華やぐ街を写したようだった。

 「マスター、お客様がいない間にちょっと練習させてください。ゴブレット使いたいんですけど。」

 「いいよ。今日はそっち側で見ててみよう。」

 「濃い方の水出しも使っていいですか。」

 そう言いながら入れ替わりにカウンターに入って手を洗い、ブランデーと生クリームを準備する私に、マスターがまた笑う。

 「店主に昼間から飲ませる気か? そんなんじゃ、もらい手がいなくなるよ。」

 「メニューに載ってるじゃないですか。泥水と気違い水、お混ぜします。」

 「後半みたいな言い方は、お客様がいらっしゃったら止めてくださいね。メニューの名前で言うように。じゃあ、もらおうかな。」

 じゃあ、もらってくださいよ、とはまだ言えない。言った方がいいのかどうかもまだわからない。

 私は黙ったまま夏の午後の窓枠を横目に、澄んだ闇と憂いを静かに混ぜ、不透明に明るい幕で覆う。バーだったら振ってしまうのだろうか。それともこれ以上触れないままの方がいいのだろうか。

 「いいと思うよ。上手くなったね。」

 味見をして微笑むマスターが、ゴブレットをコースターごとゆっくりこちらに滑らせる。白と黒の境目は傾けられたグラスの壁で溶け合い、カウンターに置かれた後もすこしだけ土の色に揺れている。

 同じ色が唇に乗ったマスターに、私は紙ナプキンを差し出す。マスターの唇が触れていない側から味見をして、それでもマスターと同じ色になった唇をもう1枚の紙ナプキンで押さえ、ゴブレットの縁を軽くなぞった親指を拭う。

投稿者 zig5z7 | 返信 (0) | トラックバック (0)

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